紀州漆器の歴史
海南商工会議所のHPにおける漆器の説明を引用させていただいております。

 → 戦国時代〜安土桃山時代
 → 江戸時代前期〜中期
 → 江戸時代後期
 → 明治時代〜大正時代前期
 → 大正時代後期〜第二次世界大戦
 → 第二次世界大戦〜現代

 戦国時代〜安土桃山時代

わが国の漆工芸は古代、中国から伝えられたといわれています。
そのころの漆工芸は祭器や高級調度品など宮廷貴族のものでしたが、椀や膳、盆などのような庶民の日常生活用具をつくるようになったのは室町時代からとされています。 室町時代には轆轤師(ろくろし)、漆工(うるしこう)、蒔絵師(まきえし)などの漆器職人や漆器の土台となる木地(きじ)をつくる職人も各地に現れ、木椀や盆をつくる村里を形づくるようになりました。 これらのことから、漆器業の発生を室町時代とするのが定説となっています。
各地に散在した木地職人のうち最大の集団は、文徳天皇の第一皇子、惟喬(これたか)親王を始祖とすると伝えられる、近江系の木地師の集団で、戦国時代後期ごろから組織化され、近江系木地師の総支配所である筒井公文所を設置しました。 公文所では支配下の木地師や轆轤師に正統派としての免許証と通行手形を発行しており、この通行証の分布状況より、戦国末期から近世にいたるまで、各地の漆器産地の発生と発展に近江系木地師が広くかかわっていたことがうかがえます。 紀州漆器の起源にも、この近江系木地師がかかわっていたとされます。
紀州漆器の起源については、天正年間(16世紀末)に根来(ねごろ)寺の僧がこの地に伝えた根来塗が起こりとする天正起源説があります。 しかし、紀州漆器のはじまりとなる渋地椀(しぶじわん)と根来塗との製造技法は異なっており、また、黒江塗に関する最古の文献(江戸時代初期)『毛吹草(けふきぐさ)』のなかでも黒江塗と根来塗とは別のものとして記されています。
これらのことから紀州漆器の起源は黒江の村里で行われていた渋地椀づくりとされており、黒江の渋地椀づくりは、近江系木地師によって各地に庶民漆器づくりが発生する戦国末期には始まっていたといわれています。

 江戸時代前期〜中期

江戸時代になると、紀州漆器の草分けともいえる黒江渋地椀(くろえしぶじわん)の名が文献史料のなかにみうけられます。
紀州漆器についての最古の記録である『毛吹草(けふきぐさ)』の名物編では、紀州が江戸初期の漆器の著名な産地として名を連ねています。 また、元禄元年(1688)ごろの様子を著す、貝原益軒の『南遊紀行(なんゆうきこう)』や、正徳2年(1712)に刊行された『和漢三才図会(わかんさんさいずえ)』には、黒江で渋地椀がつくられ、紀州土産になっていたという記述がみられます。 これらのことから江戸時代前期から中期ごろの黒江は、紀州漆器の起こりである渋地椀の一大産地として繁栄していたことがうかがえます。
黒江村では、この渋地椀づくりの発展にあわせて椀塗師(わんぬし)仲間ができ、渋地椀の製作技術を村の秘伝として、一村限りで生産を独占する体制ができていたようです。 この頃、渋地椀のほかに各地でつくられていた大衆漆器がありました。 春慶塗折敷(しゅんけいぬりおしき)と呼ばれる足付会席膳の類です。 これは椀とともに室町戦国期の庶民漆器発生の流れのなかで生まれた漆器で、『毛吹草』によると江戸初期には数カ所の特産地をもっていたようですが、一村限りで生産を独占する渋地椀づくりを続けていた黒江で、この折敷の製作がはじまったのは、江戸中期末の享保年間(1716〜35)ごろだったと伝えられています。
また、この頃には紀州では黒江のほかにも漆器づくりの新興地が現れ、折敷の製作をおこなっていたようです。 このように、春慶塗折敷については後進産地であった黒江など紀州の地では、先進産地の長所を取り入れて、独自のものを創り出していったといわれてます。
渋地椀の産地として全国に名をはせる紀州でつくられた各種の漆器は、江戸、大坂などの市場を中心に、さらに発展をとげました。

 江戸時代後期

江戸時代前期に一村で製作技法を秘伝して独占的におこなっていた紀州、黒江の渋地椀(しぶじわん)づくりは、江戸時代後期にはいるといよいよ隆盛になります。
また、江戸中期の享保年間(1716〜35)ごろから始まった春慶塗折敷(しゅんけいぬりおしき)づくりも、折敷屋職仲間とよばれる同業組合が生まれるほど盛んになり、享保年間末から化政年間(1804〜29)にかけて、黒江では伝統の渋地椀と新興の春慶塗折敷の二本立てで漆器業が栄えるようになりました。
隆盛期をむかえた渋地椀づくりは、分業制で生産されるようになりました。 轆轤(ろくろ)をひいて木地(きじ)をつくる木地師屋と、椀木地に漆を塗って椀を完成させる椀塗師(わんぬし)屋です。 また、江戸時代中期初頭までに成立したとされる椀塗師職仲間は、江戸時代後期になると株仲間を形成します。 株仲間となった塗師方には、紀州藩から生産独占の特権と利益が与えられると同時に、厳しい職人道の統制が盛りこまれた仲間定法を遵守することが義務づけらました。 こうして紀州黒江の漆器、渋地椀づくりは藩の保護と統制のもとに着実に発展をとげていったのです。
化政年間になると退廃した都市文化が江戸、大坂の庶民の漆器に対する好みにも影響を与え、華美で多様な漆器が求められるようになりました。 紀州漆器もそのような時代のながれにあわせるように多様化の道を歩み始めます。 椀塗師職小川長兵衛が堅地(かたじ)厚塗漆器の技法の導入をおこなって、紀州漆器に画期的な新風を吹き込み、さらに天保年間(1830〜43)には会津や輪島に比べて遅れていた蒔絵加飾(まきえかしょく)技法を導入。蒔絵漆器は安政開港(安政6年-1859)直後に小川屋伊兵衛らによって拓かれた、長崎、神戸での外国人商人との漆器交易を機に、急速に普及することとなりました。

 明治時代〜大正時代前期

明治時代にはいると紀州の漆器産業も廃藩置県後の新政の影響を大きく受けるようになります。
藩政末から起こりつつあった、漆器の多様化、大衆化の動きが、庶民の生活様式の変化の影響をうけて急速に進み、国内市場の伸長・拡大をみます。さらに、藩政末に始まった漆器の輸出貿易が本格化するなど、明治初期の紀州の漆器業は大きな変動期をむかえることになります。国内市場や海外市場の拡大につれて、紀州漆器はますます多様化、大衆化し、時代背景に呼応するように新しい技術の開発がすすめられました。 簡易な下地(したじ)塗装法の移入もそのひとつで、下地塗装法の移入にあたっては量産による品質の低下を防ぐ努力がはらわれました。
また、当時の紀州漆器でもっとも遅れていた沈金加飾(ちんきんかしょく)の技法やデザインについての研究をおこない、紀州黒江塗独自の沈金法を開発したほか、蒔絵についても図案の改良がおこなわれるなど新技術の開発につとめたのです。
明治時代後期から大正時代になると、日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦などの影響で、わが国の社会経済に近代化の波が押し寄せました。 第一次産業革命といわれる産業・経済の環境の変化にともない、紀州の漆器業界も新しい時代をめざして動き始めます。 明治31年8月、黒江町立漆器徒弟学校(翌年、漆器学校と改称)が設立されました。 従来の封建的な職人養成から、学校教育による広い教養と知識に基づいた職人養成への脱皮です。
一方、木地(きじ)加工部門への機械の導入をはじめとする機械技術の導入をはかることにも積極的に取り組み、生産性の向上に向けて紀州漆器製造業は急速に近代化をはかっていったのです。 と同時に、より高い商品価値を求めて、新しい感覚の意匠や図案の開発、変塗(かわりぬり)などの塗装技術の開発もすすめられました。

 大正時代後期〜第二次世界大戦

大正時代後期には第一次産業革命も終わり、都市が急速な発達を遂げて、国民生活も著しく向上します。
紀州の漆器業界でも職人たちの労働形態に変化が生じてきました。 従来の伝統的な塗師屋(ぬしや)の工房のなかで、上塗(うわぬり)、中塗(なかぬり)という工程に先だっておこなわれていた、下塗(したぬり)工程の塗師たちのなかには、塗師屋の工房を離れて自宅で仕事をおこない、出来高払いの賃金を受け取る者が現れはじめ、徐々にその数を増していったのです。 やがてそれらの職人のうちから独立した下地塗(したじぬり)加工の請負をおこなう下地屋が出現。 このように塗漆(としつ)工程において、量産に対応したより効率の高い分業体制が発生したのです。 こうした新たな動きは木地(きじ)づくりの工程にも現れ、挽物(ひきもの)木地製作に機械を利用する先進技術が導入されたほか、伝統的な渋地椀(しぶじわん)木地製造にも工場化、合理化の波をもたらしました。 このような伝統技法についての画期的な技術革新は、曲物(まげもの)木地類の製造技法の改良や各種の新塗装法の開発などにもみられます。 そしてこれらの新しい技術は漆器の質的な向上や発展にも大きく寄与するところとなったのです。
漆器製造の量産化や工場化がすすむなか、伝統工芸職人の養成を目的とした漆器学校は、業界の変動とその要請に対応できず廃校され、後に和歌山県工業試験場分室として、貿易向漆器生産技術の指導、近代的な漆器製作の研究指導を目的とし、工場的量産化時代に対応した技術脱皮をはかるため、漆器試験場が設置されました。
工場的量産化が押し寄せるなか、漆器業界には夏期の閑散期を利用して食卓、鏡台などの家具類や塗下駄などの新製品を意欲的に製造しようとする動きも現れ、業界はますます多様化の道をたどることとなったのです。

 第二次世界大戦〜現代

第二次世界大戦直後の漆器業界はたいへん苦しいものでした。
組合に在籍する業者の過半数は戦時統制以来、休業、転廃業に追い込まれ、就業者の実数は200名弱にすぎませんでした。 これらの就業者も物資統制のつづくなか、木材、漆など原材料の入手も困難で、代用塗料を使用して家族で細々と操業をつづけるという有り様だったのです。 戦後経済の荒廃に復興の道を拓くため、紀州漆器業界では塗下駄、食卓、鏡台などの製造を開始。 塗下駄の製造は先進主産地の復興にともなって姿を消すまで、大阪の卸問屋や県内および近府県の小売業者を市場として、一時期盛況を極めました。 昭和25年になると海南漆器協同組合の指導や国、県、市の補助による休業者の操業再開や生産施設の建設などによって、漆器業界の復興が軌道に乗りはじめます。
しかし、昭和30年代にはいると伝統紀州漆器業界に大きな転換期が訪れます。 漆器素地材への新素材の導入です。 歪みの生じやすい木板材の欠点を補うハードボードを、全国に先がけて漆器の素地材として使用。 ハードボード製の漆器は伝統の木板材漆器の木地(きじ)塗装技法を生かした紀州漆器として、この時期、海南漆器素地の主流を占めました。
昭和30年代の後半になると、ハードボードに替わってプラスチックが新素材として注目されるようになりました。 プラスチック製漆器の製造は、工場で化学的に合成され機械成型されたプラスチック素地に、吹付機を使って塗装をほどこし、シルクスクリーンでさまざまな図柄を加飾するという、旧来の伝統的な手工業技術とはまったく異なる新しい漆器製造法でした。
漆器生産における機械技術への完全な移行は、紀州漆器業界の本格的な転換期の到来を意味するとともに、新たな市場ニーズの掘り起こしや市場開拓を可能にするものとして、漆器業界の大きな期待を担っているのです。


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